水のこころ 童貞のこころ
童貞とは未だに性経験のない男性の総称である。
昨今では童貞とはかなりの少数派と語られるが果たしてそうなのだろうか?世を見渡せば童貞っぽいやつなんて大学を見渡せば億万といる
大学で小銭を拾う感覚で性経験を終え口を開けば女オンナのアイツもどこかあどけなさが臭い、童貞とはいわば一種の呪詛そんなんじゃ浄化できない
童貞とは一時的な経験による卒業はきっと不可能である。もっと内面からくる精神的な成長の事であろう。
ここで一つの疑問が生じる
「出来るけどしなかった それは童貞か?」
出来るけどしなかった。
ヤレるけどヤラなかった。
オマンヌをペロリンチョしてズコバコヌできたけどオマンヌをペロリンチョしてズコバコンヌしなかった。
これは果たして本当に童貞なのだろうか?
思うに童貞には2種類に分かれる。
やりたいが相手がおらず出来ない can’t の童貞
そして、やれるけどやらなかったdon’t の童貞である
Can’t の童貞については世に言う総称的な童貞でありその全員が全員 風俗で童貞を捨てるというもう一つの成人式を人生の中で抱える。
では、自ずから選択して童貞を選ぶdon’t の童貞を果たして十把一絡げにして童貞と呼ぶにはあまりにおざなりではないか?
ここで一つ勘違いをして欲しくないのはただ単に勇気がなく女性を誘えず機会があったにもかかわず逃した男性、サシで飲み隣同士で歩く距離が縮まり手の甲が当たる度にどこか心が揺れる、そんな刹那に「俺の家来ない? 犬飼ってるんだけど。」の一言が言えなかった者についてはdon’t ではなく間違いなくcan’t の童貞に該当するであろう。
犬を飼うといいと思います。
言いたいのはもっと人間の本能である性に逆らってSEXを選択しない者が間違いなく小数点的な都市伝説、UMA、一定数存在するという現実である
こう並べても全くの違和感がない。
今の日本語ではこのdon’t の童貞を称する言語が学術的にも名付けられておらず日本語の豊かな表現を用いても、わびさび、もったいない、もののあはれといった具合に表すことができない。歴史的学術の敗北である。
そんなdon’t の童貞についてどういった心境でそこにたどり着いたのか考えてみよう
恐らく我々は何か選択をする際に天秤にかける
どちらがより自分にとって利益を齎すのであるか
そういった利得の天秤にかける。
そこで ヤる ヤらないを天秤にかけた際にヤらないを選択する何らかのファクターが存在する者ぞれがdon’t の童貞の正体である。
彼らがヤる ヤらないの際に天秤にかけるものは、金銭的にもったいないそんなヤワなものだけではない。
コンビニでコンドームをスマートにレジに持っていき女性をホテルへ自然にエスコートし未知のラブホに対しパネルで無難な部屋を選択し気まずい空気の中当たり障りのない会話をしつつ部屋にたどり着いたら電気や照明をそれっぽい明度にした上で更に己のトークでムーディな空気にした上でやっとの思いで彼女に触れるもAVで得た知識だけで当たり障りない事なき主義的なコトを済ませつつカタコトにならないピロートークを語る事ができるであろうか。
そんなものを天秤にかけた日にはヤるという質量では到底に耐えることはできない。
そして彼等は口を揃えてこう言う
「はじめては好きな人」
なんと愚 ここまで純粋な愚は見たことがない
シドーやゾーマの世界征服なんて可愛いものである
この童貞達は好きな人でなければこれ等一連の動作をなんなくこなすに値しないというのである。
このブログを読んでくださる淑女の皆様へ、童貞の人に出会ったら聞いてみて欲しい「ただ単に機会に恵まれなかった」そう答える童貞は正常である風俗を勧めてあげよう。
「はじめては好きな人」このワードを出してくる奴に関わってはいけない 絶対にイケナイ 脳のどこかがバグっているのだから、もしこの種の人間と付き合って性経験をしようものなら SEXへのハードルが下がった此奴らは十中八九あなたのことを捨てて今までの反動から物凄いのめり込み方をする 関わっちゃいけないんだ。
大学時代ずっとはじめては好きな人が口癖だったヒト畜お兄さんとのお約束だ。